2014年8月28日木曜日

原付と自動車の接触事故



 外来で時々交通事故の負傷者を診る事があります。特に原動機月自転車と自動車の事故はどちらが悪いかということとは関係なく、二輪車に乗車していた人がひどい怪我をしていることが多い。体がむき出して、転倒したり接触した場合に、それが即座に体の一部の外傷となるからです。そして交通事故に限らず、体に外力が加わって負傷する際には、その負傷にいたった時点で太古からの防衛本能といいましょうか、体が自動的に戦闘モードに入ってしまうのです。

 ここで言う戦闘モードとは相手をぶん殴りたくなるということではありません。血液中にアドレナリン、ノルアドレナリンといったホルモンが分泌され、体の各臓器がそのホルモンたちの働きで、最大限の働きをするようになっていくのです。心臓はドキドキと早い脈を打つようになります。手に汗がにじむのは棍棒を握ったときに滑り難いようにです。人間には体毛が犬や猫ほど豊富にありませんので目立ちませんが、皮膚表面は鳥肌が立つのが分かるようになります。

 鳥肌が立つのは、体毛を起立させるための小さな筋肉の働きですが、これは毛が立つことによって外形が大きく見えるようになる、そのためのメカニズムです。猫が犬などを見たときに背中を丸くして両足の間隔を狭め、正面から見たときに背丈が高くなったように見える、そして総毛立つ事で横幅もサイズアップして見えるようになります。敵に対して何らかの威嚇作用があることを期待してのことです。そして、これはとても重要なことですが、戦闘モードになると、痛みに対して鈍感になります。

 負傷して来院したときにはそれほど痛く無いので『たいした事無い』とたかをくくっていたのに翌日になったらとても腰が痛くなったというのも良く見ることです。だから病院では一見大丈夫そうに見えてもあちこちの検査をします。頭はとても大事ですから、脳挫傷とか脳内出血の兆候が無いかどうか、CT検査もします。これは過剰な検査ではなく、後になってどこかが痛いといっても、その時点で因果関係が分からなくなるから、事故からあまり時間のたっていないときに調べておく必要があるのです。

 原付に乗っていて、後ろから自動車が迫ってきたら、とりあえず路肩にバイクを止めてやり過ごしてください。追い抜かれるのがイヤなら250ccかそれ以上の排気量のバイクに乗って、風を切って走ってください。人それぞれ、いろんな事情があって車のスピードを調節して走っています。自分が30kmで走りたいからといって、後続車両に30kmを強制するのはあまり感心できません。そういう場合には道を譲るというのがエチケットですね。

 スピードを緩めると、二輪車は不安定になります。ですから、車に追い越してもらおうというときにはスピードを落とすのではなく、停車すること。これが安全に走る基本です。そして怪我を避けてください。怪我をすると痛いし、時には体の機能が完全には戻らない事だってありえます。そしてその後検査や何かで時間をとられるし、時として警察に走行中のことなど訊かれて多少むっとする事だって無いとは限りません。痛い思いをして損をする、その後でまた不愉快な思いをする、事故を起こすとろくなことは無いのです。

2014年8月21日木曜日

ダーウィンと現代の農業


 ダーウィンと言う人が『種の起源』を世に問うてから150年以上経っています。150年前と言えばわが国では井伊直弼氏が暗殺された頃ですね。強固な身分制の中で足掻いていたわが国の学問と、新興ブルジョワジーによって自由に議論されるようになった彼の国の学問の違いを見てしまいます。『種の起源』からは、自由競争、適者生存、弱肉強食などの言葉を思い浮かべることが多いと思います。

 読んでみれば分かるのですが、『種の起源』は決して動物が血で血を洗う闘争の歴史を描いているわけではありません。むしろ後にわが国の今西錦司氏などによってポピュラーになった『棲み分け』のほうがその実情を正確に反映しているようにも思えます。今西らが用いる『棲み分け』は生態学で使われていた『棲み分け』とは少し意味が異なりますが、その辺は枝葉末節になるのでカット。

 その適者生存ー棲み分けを分かりやすい例を挙げて説明してみましょう。今西らが取り上げた例で彼らの学説を説明するのに好んで取り上げられるのは陽炎に関するもので、次のような観察事実が出発点になっています。
「カゲロウ類の幼虫は渓流に棲むが、種によって棲む環境が異なると同時に、異なる形態をしている。具体的には
●流れが遅く砂が溜まった処に生息する種は砂に潜れるような尖った頭をしている。
●流れのあるところに生息する種は、泳ぐことに適した流線型の体をしている。
●流れの速いところに生息する種は、水流に耐えられるように平たい体をしている。
このようにそれぞれが棲み分けた環境に適応し、新たな亜種が形成される」

 もっと分かりやすい例を挙げてみましょう。わが浜坂病院の東側、小児科外来の外に美しい芝生が広がっています。いかにも気持ちよさそうで、手入れが行き届いていると思いますが、どうしてこの芝生に雑草が生えてこないのか。たいていの雑草は芝よりも自然状態では強い。だから雑草のほうが生存競争に勝ち残るはずです。ところが、定められた区画に芝を植えた場合、その区画には定期的な『芝刈り』と言う生存への圧力が加わります。この苅込には芝のほうがほかの雑草よりも強い。だからほかの雑草たちはそうした生育環境で芝に負けてしまうのです。

 さまざまな養殖や特定の作物を育てる場合、その目的の作物や魚介類以外にとって不利になるような環境を作ってやる。そういったやり方はいろんなところで実行されており、農薬を高濃度にまくよりもずっと健康的な食料を得ることが出来ます。有機リン系の農薬で病害虫を駆除したお米と、合鴨農法で病害虫を駆除したお米と、皆さんはどちらを食べたいでしょうか。この合鴨農法も広い意味で雑草や病害虫に対する環境の圧力と捉えれば、その理論的な基礎はダーウィンによってもたらされた物です。

 まだ、秋の夜長と言うには気が早いようにも思いますが、時には『種の起源』など、古典中の古典を紐解いてみるのも良いのでは無いでしょうか。ただし、古典といってもニュートンの『プリンキピア』はお奨めできません。微積分学の専門的知識が必要となるからです。


2014年8月14日木曜日

腰痛や肩こりなど、痛みの悪循環

  体のあちこちにある痛覚のセンサーに刺戟が加わると、そのセンサーから神経を介して脳に痛みの情報が伝えられます。痛みは体の各部位に配置されたセンサーへの刺激の結果引き起こされるものです。それにどこか局所の痛みが発生すると、その部位の細い動脈が収縮して血行不良を引き起こし、組織が酸素不足になり、嫌気性代謝産物(若い頃など急な運動のあとの筋肉痛の原因になった物質=乳酸)が蓄積します。それがまた痛みの原因になるのです。

 そうなると、痛みの本来の原因が無くなっても、新たな原因で痛みが持続することがあります。痛みがいつまで経っても消えない。そういう痛みの場合、痛みの一番ひどいところに局所麻酔薬を注射することで一時的に痛みを消してしまえば、その間に血管が開き、その近傍の血流が再開し、嫌気性の代謝産物を洗い流すので、痛みが嘘の様に消えると言う事が時々見られます。痛みの大元の原因が残存する場合でも、本来の痛みだけになります。

 腰痛の場合は腰の周りの筋肉を鍛えて『筋肉のコルセット』を作り上げましょう。これは市販品のコルセットのように取り外しすることは出来ませんが、常にあなたの腰を守ってくれます。まだ腰椎の圧迫骨折が生じていなければ、この腰痛体操は有効です。腰痛などでお悩みの方は当院麻酔科を受診してください。腰痛体操による『筋肉コルセット』の鍛え方なども私が実演してご伝授いたします。

 先に述べた局所麻酔薬の注射は筋肉を覆う筋膜の直下に行うのがミソです。どこが筋膜か、微妙な手ごたえで分かるのです。すると少量の薬剤が広範囲に広がりますので効きがよい、無神経にその辺に注射針を刺して、薬剤を注入しても期待したほどの効果が見られません。誰がやっても同じような効果が出ると言う手技ではないので、トリガーポイント注射には手技に伴う結果の違いが出るのです。



2014年8月8日金曜日

アルジャーノンに花束を:ダニエル・キース


 医学を扱った小説をご紹介したついでに、もうひとつ小説をご紹介しておきましょう。ダニエル・キースという人の書いた『アルジャーノンに花束を』という作品で、SFに分類されています。確かにSFとしての要素を持っていますが、私は介護とか老化と言った問題に焦点を当てた小説として読み解くことができるのではないかと思っています。小説の大まかなプロットは次のようなものです。

 ある町にチャーリーという知恵遅れの青年がいた。知能指数が60前後で、当然自立した生活など出来ない。町のパン屋で簡単な仕事をしてみんなをほのぼのとした気分にさせながら暮らしていた。あるとき、野心的な脳外科医が、ある手術をすることで知能を大幅に伸ばすことができるが受けてみないか、とチャーリーに持ちかける。賢くなることに強い憧れを持っていたチャーリーはその手術を受けてみることにした。

 知能指数を60に押しとどめていた枷が外れ、チャーリーはどんどん知識を吸収して天才になっていく。その脳外科医師がチャーリーを使って人体実験をしたのだが、その前に行った動物実験でネズミが高度な知能を有していた。そのネズミにはアルジャーノンという名前がつけられていた。そのアルジャーノンが時々妙な動きを見せるようになった。どうやら実験によって操作された脳内に何らかの問題が生じて、実験の副作用として不可避的にたどるコースだと思われた。

 破局を回避するためにさまざまな試みがなされるが、万策尽きて彼は自分の未来を知る。将来自分が入るはずの介護施設を見学し、自分の出自を探り、下降線をたどり始めた自分の能力をわずかでも保つために難解な書物を読みふけり、さまざまな足掻きを見せる。しかし破局は目前に迫ってくる…とまあ、そんな小説です。現実にありえない脳内操作によって知能に制限を加えていた枷を取り除き、知能を飛躍的に伸ばす、という発想はSF的です。

 いろんな視点で読むことができますが、ここではちょっと変わった読み方をしてみましょう。幼い頃に成長とともに知的能力が伸び、やがて一定の時間の後に知的に退行する、その流れを普通我々は幼児期から老衰へと80年から90年かけて経験します。その期間をこの小説では数年のタイムスパンの中に押し込めている。この小説の中で、やがて自分が入所するであろう介護施設を見学に行くシーンがあるけど、私の友人の中に実際自分の入る老人ホームを見学に行って、それから契約した者がいます。

 老化は数十年のスパンで起きるし誰でも似たような経験をするので、歳を取る過程でそれほど焦らないけど、例えば若年性認知症だったらどうでしょうか。その様な問題を極端に圧縮して、当事者たちの姿を描いたのが本作です。この本の著者は少し前に亡くなりましたが、この作品は時代を超えて生き残っていくことでしょう。

2014年8月1日金曜日

医療を扱った小説




 医療を扱った小説として本邦で最も有名なのは何と言っても『白い巨塔』だと思います。タイトルが良いし、内容はエキサイティングだし、作者の医療に対する祈りのようなものもにじみ出ているように思うのです。しかし、私はあえてここではトールヴァルドという人が書いた『外科の夜明け』をあげたい。この本の内容は、一人の人物が麻酔や消毒という概念がなかった頃から1900年あたりまでの外科治療の現場を見て歩くという体裁で、実在の医師たちの苦闘ぶりを描いたものです。

 尿路結石から話が始まります。尿道を、魚を3枚におろす要領で裂いていって結石を取り出すのですが、その際に用いる手術器具が古い血のりで黒光りしているというところなど、かなりびっくりします。当時バクテリアという概念がなく、当然消毒という発想もなかったので、血のりで黒光りする手術道具というのは、その所有者が如何に百戦錬磨の経験者だったかを示す証拠のようなものでした。当然手術の結果は、運がよければ救命出来る(大半は感染症で死んでしまう)というものだったのです。

 歴史に沿って、消毒法が発見され、麻酔法が発見され、癌に対する胃切除が試みられるようになるといったことが語られていきます。そして圧巻はある年の冬、一人の男が暴漢に鋭い刃物で胸を刺されて昏倒します。しばらく時間がたって虫の息のその被害者が病院に担ぎ込まれる、その病院で心臓に対する処置を散々迷った挙句実行する、それが心臓に対する外科的な治療の第一歩だったというところでしょうか。1900年前後のことだったと思います。

 余談ですが心臓内部の手術は1940年代の前半に初めて成功しました。心房中隔欠損症に対する手術で、母親の循環系を体外循環代わりに使って手術をやりおおせました。つまり母親の動脈を子供の大動脈につなぎ子供の静脈からの血液を母親に返したのです。それから数年後にディスク型人工肺が実用化され、だんだん心臓手術がルーチンワークへと変わっていきます。ディスク型人工肺の頃はディスポでは無く、研修医諸君がステンレス類似の金属で出来たディスク一枚一枚をワイヤーたわしでゴシゴシ洗っていたと聞いています。

 話しは元に戻りますが、この本は長いこと絶版でした。最近ヘルス出版というところから新訳で出ているそうです。またこの作者は19世紀末から20世紀前半に活躍したザウエルブルッフの伝記も書いており、昔『大外科医の悲劇』という名前で出版されていました。この人はいくつかの大手術を世界で最初に成功させている、文字通りの大外科医です。現在は『崩れ行く帝王の日々 - 外科医の悲劇』というタイトルで再販されています。こちらも重い本ですが、いろんなことを考えさせます。お奨めしておきます。