2016年3月15日火曜日

心臓手術の歴史


 昔々、外科がやっと近代科学の衣を纏い始めたころ、心臓を覆っている膜(心嚢)は人間が越えてはならない一線とされていました。そこを超えると必ず患者が死に至る、そのような『結界』として認識されていたのです。1896年の初秋にドイツのある都市の公園で胸を鋭いナイフで突かれて昏倒している人が病院に担ぎ込まれて救命されるまでは。フランクフルト市立病院に担ぎ込まれたその患者は、今まで誰も成功したことのない心筋縫合を施行されてこの世に戻ってきました。

「心臓の傷を縫合しょうなどという外科医は、間違いなくあらゆる同業者に、永遠に蔑視されるだろう。」当時は医学界を代表する人がそんなことを書き記す時代だったのです。しかし何もしなければ確実に死ぬ、そんな状況の中で当時外科の部長レンが出張から帰った後にその患者の手術をする決心をしました。右心室につけられた刃物傷を彼は3針の縫合で完全にふさぎ、その患者は歩いて帰ることが出来ました。その年の秋、心臓外科関連の国際学会でレンがその事例を発表すると、そのニュースは野火のように世界中に広がったのです。

レンが行った手術は心臓の筋肉に加えられた小さな傷、筋肉の不連続面を修復するというものです。そこから、心臓の奇形や弁の変形・異常に手を加えるというところまでは若干の距離があります。実際に心臓の内部構造の異常に手を出せるようになるにはさらに半世紀を要しました。確か第二次大戦中だったと思います。合衆国で心房中隔が欠損した自分の子供とその母親の動静脈を吻合して、母体の心臓に負担をかけながら子供の心臓を止めて、心内手術で欠損孔をふさぐという手術が成功しました。開心術としては世界最初でした。

しかし子供がある程度成長した後だと、自分と子供の両方の血液循環を母親の心臓に委ねるのは不可能ですし、血液型など免疫系のマッチングの問題もありますので、誰にでも出来るものではありません。人工的な循環装置と人工肺の実用化が望まれていました。ポンプは可塑性に飛んだチューブをローラーで圧迫しながら血液を送る方法が考えられたようです。酸素化装置は横に置いた円筒形容器の中に血液を半分ほど満たし、内部に設置した円盤をぐるぐる回しながら、容器の上半分に満たした酸素に円盤に付着した血液が触れて酸素化するという装置(ディスク型人工肺)が完成し、実用段階に入りました。

私よりちょっと年の行った医師で心臓外科を志した人なら手術後のその円盤を金属たわしでゴシゴシ洗浄した記憶を持っているかもしれません。そのうち、ディスク型人工肺は気泡型に取って代わられ、膜型に置き換えられました。私が動物実験で用いた酸素化装置はガラス製で先のディスク型の応用のようなものでした。実験の後長らく生存させる種類の実験ではなかったので、血球がある程度破壊されてしまう変形ディスク型の人工肺でも充分目的に適うものだったのです。

 現在は心臓手術の細かいところまで手順がほぼ決まっていて、誰でもある程度のことはできるようになりました。しかし今でも同一の手技に要する時間によって、術後の体力の回復などが大きく異なってきます。手術の成功率というのは、どの程度の重症例を扱っているかによって大きく影響されますので、正確な指標というわけではないのです。どの施設が良い手術をするか、そういったことはなかなか分からないものですが、医師の間のクチコミである程度実情が伝わってきますので、そういったことを知りたいのであれば、気軽にお尋ねください。


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